古代の海岸線と高麗建郡1300年
                       中野 不二男
                    
 埼玉県西部の、秩父の山並みにちかい武蔵野の平野に、日高市という町があります。人口5万7000人ほどの、小さな市です。しかし江戸時代までは、周辺の地域をふくむ「高麗郡」という、比較的大きな郡の中心でした。
 かつての武蔵国に「高麗郡」が設置されたのは、西暦716年です。現在の日高市と飯能市をいっしょにしたぐらいの、小さな郡でした。
 2016年5月16日は、その「高麗郡」が建郡されてから1300年の節目で、日高市ではさまざまな行事が行われました。また高麗郡の初代郡司(現代でいう市長のような存在です)であり、1799人の高句麗人を率いてこの地を開拓した高麗王(こまのこきし)若光を祀る高麗神社では、本殿も改築され、外周の塀も美しい板材に一新されるなど、いかにも「節目」を感じさせる雰囲気になっています。今年の高麗神社は、にぎやかになることでしょう。

 ところで、私は高麗郡の成立過程を調べている歴史学者でもなければ、遺跡や遺構の調査や発掘に携わっている考古学者でもありません。地球観測衛星のデータを利用して、さまざまな解析作業により古代地形を抽出する技術の研究をしています。とくに注目している地形は、古代の「畿内」、つまり現在でいう大阪平野を中心とする関西地方。それに古代「武蔵国」の北部、つまり埼玉県北西部や、古代「相模国」の南部、すなわち神奈川県南部の地形についてです。
「武蔵国」の北部と「相模国」の南部を調べるようになったのは、十数年まえに高麗郡建郡のことを知ってからです。高麗神社の歴史については、三十年ぐらい前からなんとなく耳にしたりしていたのですが、そのころは「なるほど、日高市というのは、古い歴史のある土地なのだな」というぐらいでした。

 そして今からちょうど10年前の2006年1月24日に、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の陸域観測技術衛星ALOS(エイロス:通称「だいち」)が打ち上げられました。東日本大震災の被害状況を的確に把握し、そのデータを世界に配信して、救援体制の構築に貢献した優れた衛星です。そのALOSが、打ち上げからまもなくして地上に送ってきた最初のデータを見たとき、「これで古代地形を調べることができるのでは・・・」と、ほとんど瞬間的に感じました。これがきっかけで、ALOSのデータを利用して古代の「武蔵国」や「相模国」を調べるようになりました。そして調べてゆくその過程で、若光の行動についても興味と疑問を持つようになりました。

 たとえばさまざまな文献等によると、若光は従者とともに現在の神奈川県大磯町の海岸に上陸し、しばらくはその地に留まったのち、日高市のほうへと移動していったとされています。
 大磯町と日高市には、共通しているものがたくさんあります。たとえば、大磯町には「高麗」、日高市には「高麗本郷」という地名があります。また日高市には、上述のように「高麗神社」があり、大磯町にはかつて高麗神社と呼ばれていた「高来神社」があります。高来神社は高麗山の麓にあり、日高市の高麗神社は、若光の霊を祀っている高麗山聖天院に隣接しています。大磯と日高の土地が、若光を介してつながっていることは、疑いの余地がないでしょう。
 しかし、2つの土地のつながりはともかくとして、当時の日本の中心である畿内から東国の地にやってきた若光たちが上陸したのは、ほんとうに大磯の海岸だったのでしょうか。これが、私が感じた最初の疑問でした。

 現在の大磯には、「ロングビーチ」が広がっています。「ロングビーチ」とは、もともとは西武鉄道グループ・大磯プリンスホテルの商業施設としての名称のようです。たしかに小田原から逗子にいたるまでの長くゆったりとした砂浜の海岸線は、その名前にふさわしい光景です。大磯の町は、そのロングビーチのほぼ中央に位置し、海辺には整備された漁港もあって、多くの漁船が出入りしています。この光景を見れば、1300年近い古代のある日、若光たちもこうした漁船のように、沖合からやってきたのだろうと思いたくなります。

 しかし、それはありえなかっただろうと私は考えています。そもそも1300年前の神奈川県南岸には、現在のような地形、あるいは海岸線が存在していたのでしょうか。これは、毎日のように研究室で衛星データや標高データをながめている私には、当然のように浮かんでくる疑問です。

 相模湾と目と鼻の先には、房総半島があります。その房総半島沖の海底には、太平洋プレート、ユーラシアプレート、北米プレートが重なり合う三重会合点、いわゆるトリプル・ジャンクションがあります。また相模湾沖の海底には、北米プレートの下にフィリピン海プレートが潜り込んでいるとされる境界線、相模トラフがあります。
 ようするに神奈川県南岸は、地殻変動がきわめて活発な地層が、目の前の海底にあるということです。そういう地域の沿岸に位置する大磯の海岸線が、1300年前と現在で、ほとんど変化していないとは、とても考えにくいでしょう。実際、房総半島沖や相模湾沖の海底を震源とする地震は、記録に残されているだけでも相当数にのぼっているのです。
 したがって地震という地殻変動のたびに、神奈川県のみならず関東平野南部の地形は、少しずつ変化しているはずです。とくに沿岸部は、それが顕著にあらわれるにちがいありません。

 たとえば房総半島南端の館山市にある、縄文時代早期(約8000年前)の遺跡とされる稲原貝塚は、標高40mのところにあります。いうまでもないことですが、貝塚というのは縄文人が海辺で採集した貝類や魚を食べた後の、「ゴミ捨て場」だったところです。その「ゴミ捨て場」の標高が40mというのは、妙な話です。
 貝塚の多くは、舌状台地(文字どおり、”ベロ”のように突きだした台地です)のヘリにあります。つまり縄文人たちは、海辺の台地で暮らしていたということです。台地ならば、日常の潮の干満はもちろんのこと、海が荒れたときや高潮などでも被害を受けることはないでしょう。安全で、かつ食糧採集の場である海にも近い“高級住宅地”です。縄文人は、生活には便利でかつ安全な、そういう場所で暮らし、ゴミは台地のヘリのところで捨てていたのでしょう。そのゴミが堆積してできたのが、貝塚です。
 しかし「ゴミ捨て場」の遺跡が標高40mというのは、あまりに高い。これはなぜか。
 縄文時代は地球温暖期であり、海水準が現在よりも5mほど高かったとされていますが、その数字を差し引いても「40m ― 5m = 35m」です。これで遺跡が現在も海岸にあるとすれば、それはもう台地ではなく、断崖絶壁ということになります。しかし館山市の稲原貝塚は、海辺からかなり離れた山の中にあります。稲原貝塚だけではなく、南房総にある同時代の遺跡や貝塚は、標高40mから50mの台地で発見されています。ということは、8000年のあいだに房総半島の南部が、地殻変動によって隆起していたことのあらわれでしょう。

 大磯町の北にも、「五領ヶ台貝塚」という縄文時代中期初頭の遺跡があります。住所では、神奈川県平塚市です。この貝塚も、海岸線からは8km近くも内陸に入った、標高40mの舌状台地のヘリにあるのです。したがって縄文時代中期には、このあたりに海岸線があったということになります。

 では高麗郡が建郡されるころ、つまり若光たちが大磯にやってきた1300年前の神奈川県南部の地形は、どのようになっていたのでしょうか。その解を求めるために、USGS(United States Geological Survey:アメリカ地質調査所)の「Landsat8」のデータや、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の陸域観測技術衛星「ALOS」(Advanced Land Observing Satellite:愛称「だいち」)によって取得された標高データを利用しました。
 Landsatは、ご存じの方も多いかと思いますが、さまざまな領域の研究に利用されている、ひじょうに歴史のある地球観測衛星のシリーズです。いっぽう日本の「ALOS」には、Landsatよりも解像度の高い複数のセンサーが搭載されており、それらによって取得されたデータを組み合わせると、地表の微細な凹凸もふくめた景観を、3次元画像化することができます。

 まずLandsat とALOSのデータで、神奈川県南部を3次元画像化します。たんに3次元化しただけでは、見た目はGoogleMapなどで表示される航空写真と変わりません。
 つぎに3次元画像化したデータに、バーチャルな海水面を載せ、その海水準を少しずつ上げてみます。神奈川県には、縄文時代中期の遺跡がたくさんありますので、データ上に貝塚の位置をプロットし、バーチャルな海面による海岸線が、それらの貝塚と接する高さまで上げていきます。こうしてできたのが、図1.の画像です。縄文時代中期の海岸線は、内陸部のそうとう奥深くまで入り込んでいたことがわかります。

五領ヶ台貝塚

図1.縄文時代中期の神奈川県南岸(赤い円が五領ヶ台貝塚)

 では1300年前の神奈川県の海岸線は、どのようになっていたのか。これを調べるためには、貝塚の位置から縄文時代の海岸線を抽出したように、何か基準となるものが必要です。ここでは、寒川神社の位置を活用しました。
 寒川神社は、大磯町の中心地から北東に10kmほどの、相模川沿いに位置しています。相模国一之宮として長い歴史があります。5世紀の半ばから続くといわれていますが、記録として残っているのは社殿建立が727年、つまり1289年前だったことです。また、「南に海がひろがりて・・・」という神社の地理的な位置を示す記録も残されているとのことです。さらに古代交通路研究では重要な参考資料となっている「神奈川古代交通網復元図」(木下良ほか)に照合しても、寒川神社の社殿建立がこの位置だったと思われます。
 そこで、寒川神社の南側に海岸線が接するように、バーチャルな海水面の高さを調節します。すると、図2.のようになりました。

700年の神奈川

図2.700年ごろの神奈川南岸(赤い円は寒川神社)

 ごらんになってわかるように、相模湾の沿岸部は、「ロングビーチ」ではありません。海岸線は内陸に深く入りくんでおり、大小の湾を作っています。寒川神社の南には、“寒川湾”と呼びたくなるような三角形の湾があり、その頂点部分の陸地に、神社が位置しています。
 大磯町の付近も、やはり北側には入り組んだ形状の小さな湾があり、高麗山はその門のように突き出ています。
 現在の光景からはとても想像できないような画像ですが、実際に現地へ行ってみると、かつての状況をイメージできるのではないでしょうか。画像データ上で海の底になっている地域は、いまもフラットで、クルマを運転しているとその高低差と平坦さを実感するはずです。

 神奈川県南岸の海水準の変化は、さまざまな要因が考えられます。縄文時代の変化は、地球温暖期の終焉が大きな影響をおよぼしていたと思われますが、その後の変化は、地殻変動による土地の隆起が関係していたのではないかと思われます。前述のように、相模湾のあたりでは北米プレートの下にフィリピン海プレートがもぐりこんでいます。つまりフィリピン海プレートが、少しずつ北米プレートを持ち上げていると考えられます。そのため北米プレートの上にある神奈川県南部は、ゆっくりと隆起しているのではないでしょうか。
 大磯の町から東へ15kmほどのところにある江ノ島は、片瀬海岸と橋で結ばれた観光スポットですが、もともとは沖合にある小さな島でした。それが少しずつ隆起し、地震の後の干潮時には歩いて渡ることができるようになったのは、「吾妻鏡」をはじめとする古典文学や古文書に記されているとおりです。同じ神奈川県南部の大磯町も、じわりじわりと隆起していったのだと思われます。

 では、1300年前の海岸線が図2のようだったとすると、若光たちはどこに上陸したのでしょうか。この時代の日本は、645年の大化の改新後、律令制による中央集権の整備が進んだときです。東国に位置する相模国においても、勝手な場所に上陸して、自由気ままに活動できたとは思えません。

 ここで若光の行動にかんする記録を、あらためて復習してみます。日本の古文書や古文献に記されている、若光に関係すると思われる記述の要約を列記します。

1.666年:高句麗からの使節団の中に、「玄武若光」がいました。(日本書紀) 年齢は記されていませんが、かなり若かったと思われます。また一般には、若光は高句麗の王族の出身とされてます。
2.668年:高句麗は、新羅・唐の連合勢力により攻められて滅亡。その結果、若光たち使節団は、祖国を失います。
3.703年:玄武若光は、朝廷から「従五位下」という官位と、「高麗王(こまのこきし)」という姓を賜ります。(続日本紀)
4.716年:1799人の高句麗人により、高麗郡建郡が建郡されました。(続日本紀)

 この中で重要なのは、「3」の部分です。若光は、「従五位下(じゅごいのげ)」という官位を与えられています。律令制下の階級制度では、郡司つまり現在でいう“市長”のような役職には、地方の豪族や、それなりの身分の人が任命されています。さまざまな文献を調べると、彼等のほとんどは「従五位下」です。したがって官位を与えた段階で、新設される高麗郡の郡司には若光を任命することが決まっていたものと思われます。同時に、すでに日本国内にいた高句麗人1799人(若光とおなじく、日本に渡来していたもの、半島の戦乱で祖国を失った人々です)を率いる立場と、高句麗の王族の血筋であることを考慮し、朝廷は「高麗王」の姓を与えたのではないでしょうか。

 さて、ここからが核心です。朝廷から高麗郡建郡の命を受けて東国に向かった若光たちは、相模湾沿岸の、どこに上陸したのでしょうか。当時の高麗山周辺には、さして広いエリアはありません。とくに1300年前の高麗山の東側は、岬のように海に突き出た地形だったはずです。
 ここで1つ、興味深いエピソードがあります。大磯町の「御船祭り」で唱い継がれている、「権現丸」という木遣り唄の歌詞です。木遣りとは、もとは文字どおり木材を運ぶときのかけ声でした。それがやがて、職人集団の「のど自慢」にも似た唄となったとされています。いっぽうで地域の祭りでは、氏神様の縁起や功績を唱い上げる伝統文化としても定着しています。
「御船祭り」で唱い継がれる「権現丸」は、次のようなものです。少々長いのですが、全文を記します。

「権現丸」
 そもそも高麗大明神の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に海中騒がしく、浦の者共怪しみて、はるかの沖を見てあれば、唐船一隻八ツの帆を揚げ、大磯の方へ梶を取る、走り寄るよと見る内に、程なく水際に船はつき、浦の漁船、漕ぎよして、かの船の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に上りて声をあげ、汝等其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て大日本に心掛け、汝等きえする者なれば、大磯浦の守護となり子孫繁昌守るべし、あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗りうつり、揚がらせ給ふ御代よりも、権現様を乗せ奉まつる船なれば、権現丸とは此れを言うなり。

 文中の、「翁一人立ち出て、櫓に上りて声をあげ、汝等其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが・・・」の部分から、この「翁」が若光を指しているだろうことは、容易に推測できます。いっぽうで、「木遣り唄などは後になって脚色することもあるんだから・・・」と、この文言の信憑性を疑う歴史学者の先生もいます。たしかにこの種の言い伝えは、語り継ぐうちに話がふくらんでゆくこともあるでしょう。
 しかし、私が注目していたのは、「浦」という単語が使われていることです。「浦」とは、「小さな湾」や「入り江」を意味する言葉です。「ロングビーチ」である大磯の町に、そうした「入り江」らしき地形など、どこにもありません。にもかかわらず「権現丸」という木遣り唄には、「浦の者共」、「浦の漁船」、「大磯浦」と3カ所もあります。これに対し「大磯」という地名を表す言葉は、1カ所だけです。仮に唄の内容を脚色する意図があったとしても、「大磯」を「大磯浦」と表現することは、さして重要ではありません。乱暴な言い方をすれは、どっちだっていいことでしょう。ただし、木遣りといえども唄であるからには、発音するときの節回しや音の流れなどがありますから、やはり“座りのいい言葉”でなければなりません。ということは、「権現丸」にある「浦の者共」、「浦の漁船」、「大磯浦」の歌詞は、昔から変わっていないと考えてもいいのではないでしょうか。

700年の神奈川

図2.

 では、その大磯の「浦」とは、どこにあるのでしょうか。ここで振りかえって図2.を見てください。高麗山の北側にあるのは、まぎれもない「入り江」、すなわち「浦」です。それも形状からして、相模湾が荒れているときにも、その波浪の影響を受けにくい、船舶にとってはまことに好都合の「浦」です。「権現丸」に唱われている「浦」とは、ここを指していたのではないでしょうか。
 もしそうであれば、この入り江が「大磯浦」であり、漁師たちの「漁船(いさりぶね)」はそのどこかに停泊していたことになります。そしてある日、若光たちの乗っていた船がここに入ってきたので、「浦の者共怪しみて」眺めていたのではないでしょうか。
 もちろん断定はできませんが、この入り江を仮に「大磯浦」と呼ぶことにします。若光たちの船は、この大磯浦のどこにやってきたのでしょうか。
「大磯浦」の西岸のいっかくに、公所という地名の地域があります。「おおやけ・どころ」と書いて、「ぐぞ」と読みます。なじみのない名前ですが、「公」という文字から推測できるように、朝廷の所有地、あるいは朝廷直轄の地です。
 ここで、日本の古文書や古文献に記されている若光関係の記述を思い出してください。若光は、703年に朝廷から「従五位下」の官位を拝し、「高麗王(こまのこきし)」という姓を賜っていることが、続日本紀に出ています。ということは、朝廷の命で東国にやってきたのですから、朝廷直轄の地である「公所」に上陸することを認められていたと考えても、不自然ではありません。
 現在の公所は、もちろん海岸ではありません。大磯の海辺から直線距離で5km近い内陸にあります。しかし、周囲よりはあきらかに標高が高く、台地になっています。さらに前述の縄文時代中期初頭の遺跡「五領ヶ台貝塚」は、ここからわずか1kmほど北にあります。ほとんど隣接しているといってよいでしょう。つまりこのあたりは、縄文の昔から海に近くて食糧に恵まれ、やがては漁船の船着き場としても適し、それでいて海流や波に浸食されないという、生活には好都合の土地だったのではないかと思われます。

 ところで現在の公所は、大磯町には属していません。行政区画では平塚市です。しかしこうした区画は中世以降になってからのものであり、1300年前はこのあたり一帯が余綾郡伊蘓(いそ)郷だったようです。
 では、若光たちの上陸地点が「大磯浦」の公所だったと仮定すると、現在の大磯町の位置づけはどうなるのでしょうか。若光たちは、現在の大磯の地には足を踏み入れなかったのでしょうか。
 私は、1300年前の大磯の中心、つまり人口が集中していたのは、高来神社から西へ6kmほどの、現在の国府新宿のあたりだったのではないかと考えています。すぐ隣は国府本郷で、地名からもわかるように、かつては相模国の国府があったとされる場所です。
 この周辺を、衛星のデータ上にバーチャルな海水面を設定して確認すると、地球温暖期である縄文時代をのぞけば、ずっと陸地だったことがわかります。
 これに対し高麗山の南側は、有効利用できる土地が、たいへん少なかったようです。たとえば西暦500年を想定し、バーチャルな海水準を上げてゆくと、海岸線はほとんど現在の高来神社のあたりにまで迫ってきます。
 海水準を下げ、西暦700年ごろ、つまり若光たちがやってきた頃の景観を再現しても、海岸線の位置はほとんど変わりません。
 しかし西暦1000年頃になると、少しずつ陸地が広がっていきます。西暦1000年頃の海岸線など、どうやって再現するのかと思われるかもしれません。実はそこが、私の研究テーマの1つでもあります。

1000年の神奈川

図3.1000年ごろの神奈川県南岸

 日本の古典文学に、「更級日記」があります。西暦1020年頃に菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が書いたとされる、日記文学の代表作です。彼女の父・菅原孝標は、朝廷の命によって上総国(現在の千葉県南部)へ国司(現在いう県知事)として赴任していました。その任期を終えて京都へ帰るとき、同行していた文学好きの娘が、道中の光景を描写したり、家族の話を記したりしたのが、「更級日記」です。
 菅原孝標一行が旅したのは、旧東海道です。律令時代の東海道とは完全におなじではありませんが、部分的に一致しています。したがって「更級日記」にある景観についての描写から、西暦1020年頃の東海道や海岸線を推測することができます。

神奈川古代道路

図4.「更級日記」の時代の東海道
(「神奈川古代交通網復元図」に図3.をかさねたものです。古代東海道が、入り江を避けて内陸をとおっていたことが、よくわかります)

 高麗山の南側は、少しずつ陸地が広がっていきますが、変化の速度はそうとうゆっくりしたものだったと思われます。そればかりか、高麗山の東側や北側には、1850年代つまり江戸時代の後期になっても湿地帯が広がっていたはずです。これは、安藤広重の「東海道五十三次」にもはっきりとあらわれています。
「東海道五十三次」は、江戸の日本橋から京都の三条大橋までを描いた55枚の版画集で、その8番目に「平塚宿」があります(宿場の数は53カ所ですが、広重はこれに「江戸出立」と「京都着」の2シーンを加え、55シーンとしています)。
 平塚から大磯へ向かう道中の光景で、中央にはドンブリ飯をひっくりかえしたような、特有の形をした高麗山が描かれています。この絵をたよりに、現在の平塚の東海道を歩き、広重が元絵を描いたと思われる場所を探した結果、平塚八幡宮のあたりではないかと思われました。

平塚の宿

図5.東海道五十三次「平塚宿」安藤広重

「平塚宿」の絵では、道幅のせまい東海道の左右は、いわゆる「ヒロシゲ・ブルー」の汽水湖、あるいは沼地のように描かれています。衛星データ上では、残念ながらそうした色までは再現できませんが、巨大な“水たまり(水域)“として検出できます。江戸時代の関東平野内陸部には、広い湿地帯が散在していましたが、やはりこのあたりにも、水域や沼地がひろがっていたようです。
 また、「平塚宿」に続く9番目の絵「大磯宿」では、高麗山の麓と海岸線との距離がとても近いことがわかります。広重は景観を強調するために配置をデフォルメすることで知られていますが、しかしこの距離は、衛星データによって再現した画像とほとんど一致しています。ということは、高麗山の南に広がる土地は、1300年前も江戸時代も、そうとう狭かったと考えていいのではないでしょうか。

 では、そういう狭い土地だったにもかかわらず、「高麗」という地名が生まれ、そこに隣接する「化粧坂(けわいざか)」という地域に渡来人(高句麗人)たちが居住していたという言い伝えがあるのはなぜでしょうか。これについては、歴史の専門家に教えを請いたいところです。若光たちが大磯浦にくる以前から居住していたのか、あるいは若光たちの一行のうち、一部がここに居住したのか、残念ながらわかりません。
 ただ、大磯という場所、とくに高麗山の存在は、きわめて重要だったようです。
「東海道五十三次」の最初のシーンである「江戸出立」、つまり日本橋から、7番目の「藤沢宿」までは、小高い丘はあっても山らしき景観は描かれていません。最初に山が出てくるのは、8番目のシーンである「平塚宿」で、それが大磯の高麗山です。
 こうした景観を、相模湾の海上から眺めるとどうなるか。誰でも容易に想像できると思いますが、関東平野西部は真っ平らに見えるはずです。そのフラットな地平に、ポコンと突きだしているのが高麗山です。これは、現在の景観を3次元化した衛星のデータで、視点を相模湾の海上に設定すると、明確にわかります。高層のビルはもちろん、高い建物などまったくなかった1300年前なら、フラットな地平のなかで高麗山の存在は、そうとうに目立っていたと思われます。

海からの高麗山

図6.相模湾から見た高麗山(ALOSデータで製作)

 ようするに高麗山は、ランドマークだったのです。船で遠方からやってくる場合だけではなく、相模湾で漁をする人々にとっても、高麗山は重要な目印だったと思われます。

 若光たちの船が、どこを出発点としていたのかは不明です。畿内の朝廷のもとを出発し、難波津や住之江津などから船で出港したのか、あるいは太平洋側への出口だったとされる和歌山の紀水門から出港したのか、残念ながら資料らしきものはないようです。
 しかし、木遣り唄「権現丸」が残っているということは、少なくとも伊豆半島南端から相模湾へ、そして「大磯浦」へは、海路で向かったはずです。それも、かなりの人数が乗り込んでいたと思われますし、さらに上陸後の移動と高麗郡の開拓にむけた物資も積んでいたでしょうから、「大磯浦」の「漁舟」とは比較にならない大きさだったのではないかと思われます。もしかしたら1隻ではなく、複数の船だったのかもしれません。いずれにしても当時の「大磯浦」の人々には、この出来事はまさに青天の霹靂であり、それゆえに語り継がれたのだろうと思います。

 衛星データを活用すると、歴史のヒダに埋もれていた出来事を、科学的に推測することが可能になります。しかし、それがかならずしもすべてを解明してくれるわけではありません。あくまでも理解の糸口の一つです。仮に若光たちが公所に上陸していたとして、その後はどこに居をかまえたのか。どのぐらいの期間を、そこで過ごしたのか。埼玉県の日高市方面へは、どのようにして移動したのか。高麗郡の建郡に先立つ開拓は、どのようにしてはじめられたのかなどは、まだまだわからないところがたくさんあります。
 地球観測衛星だけではなく、他の科学・技術を活用すると、もっと見えてくることがあるかもしれません。